2030年に運用資産額5億円到達を目標にしている”あきひろ”です。
経済ニュースを深く理解するために現代史を並行して勉強していますが、歴史との繋がりに行き着きました。
という事で、広く浅く時に深く、歴史についても記事にしていきたいと思います。
今回は中国の歴史です。
中国というのは『人』(つまりはその時の皇帝や英雄)によって統治してきた地域であるという特徴があります。
例えば、インドであれば『ヒンドゥー教』やそれの元となった『バラモン教』、その他に『ヴァルナ階級』(カースト制度)で以って統治してきました。
要は「仕組み」で統治してきたわけです。
中東はイスラーム教という「宗教」での統治。
そして、ヨーロッパは「宗教」と「皇帝」のその時々どちらかでした。
- 中国 人で統治
- インド 仕組みで統治
- 中東 宗教で統治
- ヨーロッパ 宗教・人で統治
人で治めるのか、宗教で治めるのか、ルールで治めるのか
こういう事ですね。
Contents
【古代文明】南の長江・北の黄河
巨大な2つの南北の川が中国の古代文明の発祥です。
南に位置する『長江』は「温暖多湿」の気候なので稲作に向いてます。そのためコメ中心の食文化です。
北に位置する『黄河』は「乾燥地帯」の気候なので畑作に向いてます。そのため麺類(小麦)中心の食文化です。
やがて『邑(ゆう)』と呼ばれる小さな村・集落が点在するようになり、それも貧富によって大小様々色々なものができるようになってきました。
【殷】美女に溺れて滅亡
そんな邑が多くでき、リーダーシップを取り始める大邑ができ始め、その他の邑を従えて生まれていたのが『殷(いん)王朝』です。
この殷で有名なのが、30代目最後の王である『紂王(ちゅうおう)』
元々は文武両道で見た目もカッコ良かった名君だったそうですが、『妲己(だっき)』という美女に溺れて衰退していった事で有名です。
【周】美女に溺れて滅亡(再)
そんな殷を撃って、次に成立した王朝が『周(しゅう)王朝』です。
この周も結局は美女に溺れて弱体化します。
中国史では「美女に溺れた統治者が国を弱体化させて滅ぶ」というパターンが繰り返される事でも有名です。
【春秋・戦国時代】500年間続いた中国史上最大の戦乱
そしてそこから始まったのが『春秋・戦国時代』です。
これが500年に渡って続いた中国史の乱世で、そんな乱世が続く中でも、ある程度力を持った国が誕生し始めます。
その7つの国というのが、
韓(かん)・魏(ぎ)・超(ちょう)・秦(しん)・楚(そ)・斉(せい)・燕(えん)
これら『戦国の七雄』と言われる国々です。
そしてその中の最西の『秦』がこの長く続いたバトルロイヤルを制覇し中国全土を統治します。
そこの皇帝が『始皇帝』
この秦の始皇帝が中国史上初めて『皇帝』を称された人で殷や周の時代は『王』でした。
このことからも、始皇帝がどれだけの権力を持っていたかわかります。
『孔子』有力コンサルタント
この春秋・戦国時代には『諸子百家』と呼ばれる多くの思想家が出現した時代でもあります。
諸子百家というのは、つまりは色んな派閥の学問の事です。
この乱世の中、どうやったら自国を強国にできるか迷っている王が多かったんですね。
事業運営に悩む経営者のためのコンサルタントみたいなものでしょうか。
この当時、各国の統治者は「戦争に勝つ方法」「国統治の仕方」「家臣のチームワーク強化」こう言うことについてのアドバイスを思想家たちにもらったわけですね。
諸子百家の主な流派以下のようなものがあります。
「上下関係を確立する事が国の安定につながる」という考え。
「目上の者を敬う」という姿勢が代表的なもの。
【思想家】孔子。その弟子の孟子(もうし)・荀子(じゅんし)
「法を守らせる事が何よりも大事」という考え。
君主が悪性をしようが善政をしようが社会秩序を守ためには法を守らせる事が重要。
【思想家】商鞅(しょうおう)・韓非(かんび)・李斯(りし)
この商鞅は秦を法治国家に発展させました。
「無差別の愛こそが重要だ」という考え。
「『無為自然』こそ良い」という考え。
礼や道徳などの人の手で作られた秩序を批判。『道教』へ発展。
【思想家】老子・荘子(そうし)
【秦】中国初の統一王朝
秦の始皇帝は中国史上初めて中国全土を統一した初代王朝です。
春秋・戦国時代、この乱世を潜り抜けてきたので、とにかく全体を“まとめる事”に集中しました。
色々なモノ、例えば農具の統一。貨幣の統一。文字の統一。
そして果ては思想までも統一を図り、まとめる事にとにかく徹底しました。
「決め事」「ルール」での統制を一番に考えたため、上記の『法家』を採用します。
そして他の思想という思想を排斥するため、極端な弾圧行為にでます。
それが『焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)』。
恐ろしい弾圧行為です。
儒家の書物を燃やし、さらには儒家を生き埋めにしました。
『中央集権体制』の確立
全国を郡、さらにその郡の中を県で分割する郡県制を導入しました。
これにより、皇帝の命令一つで国を動かせる体制作りを行います。
『万里の長城』の建設
宇宙からでもその姿が確認できるという、人類史上最大の建造物『万里の長城』を建設したのも始皇帝です。
この当時は北方民族からの襲来が多かったため、せっかく一つになった中国を守ために建設しました。
その一方で、この急激な改革で民衆の不満が鬱積し、その後の反乱によって秦王朝はなんと15年で崩壊してしまいます。
【漢】400年の長生き王朝
奇しくもその秦王朝が築き上げた仕組みや政治体制・社会体制はそのまま生かされて、その盤石な基盤の上で、この次の『漢王朝』は400年を超える長寿王朝になります。
漢王朝を成立した初代『劉邦(りゅうほう)』は、もともとは秦に対する反乱軍の中の有力者の一人でした。
同じように反乱軍であった『楚(そ)』を率いた『項羽(こうう)』もその一人で、この二人が争った結果、劉邦が勝利し、漢を成立をした経緯があります。
この戦いは「四面楚歌」という四字熟語のルーツにもなりました。
劉邦は国のトップでありながら、これまでのトップとは違って人望もあった事で、中国史の中でも人気が高い人物です。
『中央集権体制』の見直し
劉邦はトップに立ってすぐ、秦の頃に築いた体制の見直しを図ります。
その一つが「中央集権体制」の見直しです。官僚制は都周辺だけにし、ある程度は地方に任せる形をとり、『郡県制』から『郡国制』に変えました。
巨大な一企業から主要な事業部を子会社化したようなイメージですかね。
『前漢』と『後漢』に挟まれた『新』
そして漢の時代は途中、『新』という別の王朝が15年支配する時代があって
また漢に戻ります。
そのため、前半を『前漢』、後半を『後漢』という風に言われています。
東西の巨大帝国
この頃の世界を俯瞰的に見てみると、「東の後漢」、そして「西のローマ帝国」
このようにユーラシア大陸を東西の2大帝国が二分して支配していた時代になります。
しかもこの2つの大帝国はお互い交易をしており、その間にある周辺諸国も栄るという事が怒っていました。
『宦官』半端なき出世欲で国崩壊へ
そして漢王朝を象徴する一つが『宦官(かんがん)』という役人の存在です。
当時、皇帝の私生活の世話係というのはこの宦官が行っていましたが、スキャンダル防止のため「生殖機能を奪われた男」達で編成されています。
つまりは“ちょんぎって”悪い事ができないようになっていたわけですが、子孫が残せないそのもの達の中には半端ない出世欲を持つものもおり、色々と政治に関与し始める者達も出てきます。
結局のところ、これが原因で前漢・後漢共に滅びるわけですが、その後各地で反乱が起こり、大人気の『三国時代』に突入する、という流れです。
【三国時代】再度乱世へ突入
漢が滅び、中国はまたもや乱世の時代になります。
3強国『魏(ぎ)』・『呉(ご)』・『蜀(しょく)』の時代です。
結局、最終的な勝者はこの中の誰でもなく、魏の家臣だった『司馬炎』が魏を乗っ取って『晋王朝』を建国して中国全土を統一します。
三国時代は日本の戦国時代や幕末のように人気があって魅力的なものですが、当事者にとってはたまったものじゃないですよね。
中国全土が戦場と化していたこの期間、後漢末期に5,500万人程いたとされる中国の人口は三国時代には800万人程になったとすら言われています。
【晋】最初から「疲弊状態」
そんな事もあって『晋』は約50年で滅びます。
三国時代を戦い抜いて疲弊し、国づくりが疎かになった事で、司馬炎の死後、皇族の主権争いが繰り広げられたためです。
その上、万里の頂上の守りも適当にやっていたために、乗り越えてきた異民族の侵入によってやられてしまいます。
「内乱によって中が疲弊し、外の敵にやられる」という構図は歴史で度々見受けられますね。
【南北朝時代】中国初の異民族国家
中国史はここから『南北朝時代』に突入します。中国史上初の異民族の王朝による統治です。
【北】五胡十六国時代
「北」では『五胡十六国時代』というものが始まります。
攻め込んできた移民族同士がお互いに争い合い、新たな国を建国しては消えていくという混乱時代がしばらく続きます。
そして、この乱世をまとめあげたのが『北魏(ほくぎ)』という国
これは中国に乗り込んだ異民族が本格的な王朝を作った初めてのケースです。
【南】リベンジ国家『西晋』
「南」では『晋』の生き残りがもう一度晋を建国します。
ここを『西晋』と読んでいます。
最初の晋の事は『東晋』と呼びます。
その後、宋(そう)・斉(せい)・梁(りょう)・陳(ちん)の順に次々王朝が成立します。
【隋】有名なのに短命
南北朝時代の混乱が収束して、久しぶりにできた統一国家が『隋』です。
日本史でも「遣隋使」でおなじみです。
この隋の時代、律令の整備(法整備)、大運河の建設などに血道を上げました。
『均田制』というシンプルな租税方法を考案し、
『科挙(かきょ)』という役人テスト(コネなし)を採用し、
何より長江と黄河を繋ぐ大運河の建設プロジェクトは凄まじいものです。
しかし、この大規模プロジェクトによる莫大なコストと過酷な労働で民衆の不満は爆発し、結局37年間の短命王朝で終わってしまいます。
戦乱が長く続いたために、その後国家としての地盤づくりに力を入れた様子をみると、なんとなく秦の再来を思わせます。
【唐】漢の再来か!?安定の300年
皮肉にもその後の流れは秦の後の漢の安定期と同じです。
隋が作った体制基盤とインフラがその後の『唐』の安定政権に繋がり、その後約300年、長期政権を運営しました。
東アジアの大部分を持った広大な領域へと成長し、隋で作り上げた基盤をさらにアップデートした政治体制は周辺諸外国の大きな模範となりました。
法律と罰を制定した『律令制」を導入し、『三省六部(さんしょうりくぶ)』と呼ばれる現代の日本の省庁的な存在も確立させました。
日本においても「遣唐使」を派遣し、勉強して持ち帰らせ、その後の日本の政治にも大いに水平展開がなされましたわけですね。
しかしそんな盤石な基盤も少しずつほころび始める時がきます。
均田制の崩壊です。
貴族や大寺院による土地の「横取り」が横行し始めます。しかも、実際のところこの方が実質的な負担が減ると感じた民衆による自主放棄が加速していきました。
そうなると均田制をベースに課税管理していた『租調庸制』も一緒に崩壊します。
ついでに『府兵制』という徴兵制度も均田制がベースなので徴兵ができず、国が弱体化。
優秀な人員が徴兵できなくなってきたため、その代わりとして地方の防衛に当たらせた『節度使(せつどし)』が少しずつ反乱を起こし始めます。
この後もしばらく唐の時代が続きましたが、最終的には節度使の反乱で唐は滅亡します。
そしてまた乱世に突入です。
【五代十国時代】再び乱世
唐が滅んだのち、中国の北部で短命な5つの王朝が現れては消える時代がきます。
そして南の方では長江流域を中心にした10の軍事政権が生まれます。
これらは、節度使が唐末期に完全に独立し、お互い争う状況になっていたために起こりました。
【宋】平和はお金で買う時代
この五代十国時代の混乱を鎮めて建国したのが『宋』です。
五胡十六国時代と同じく、乱世のあとは異民族来襲に悩まされます。
北宋時代は北部から『遼』という名前の国と
南宋時代は北部から『金』という名前の国と
それぞれ対立することになるわけですが、この時代に宋がとった戦略はこれまでと一風異なります。
『平和をお金で買う』
ということをします。
つまり毎年贈り物をする事で宋に攻め込まないことを約束させるわけです。
当時このやり方に賛否はあったものの、北方よりも地理的に豊かな生産力が確保できる国土にある国としては、ある意味賢明な手段だったと言えるかもしれませんね。
【モンゴル帝国】アジア最強の覇者
そして北方ではさらに別の動きが出始めます。
おそらくは地球最大の領地を攻めたであろう『蒼き狼』の異名を持つ『チンギス=ハン』の登場です。
代々最強のチンギスグループ
もはや説明不要の大帝国ですが、その『モンゴル帝国』をさらに発展させたのが、その子や孫ですね。
以下にチンギス一家の活躍?をまとめます。
【長男ジュチの子】バトゥ
バトゥはヨーロッパ方面に侵攻します。
ロシア方面の『キエフ公国』を征服し、その後ドイツ・ポーランド連合軍と『ワールシュタットの戦い』で破ります。(※ワールシュタット:死体の山の意味)
ロシアに『キプチャク=ハン国』という国を建国します。
【次男】チャガタイ
中央アジアに『チャガタ=ハン国』を建国します。
【三男】オゴタイ
チンギスハンの後継者。『金』を征服します。
【四男トゥルイの子】フビライ
中国に元を建国します。日本に二度攻め込んだ『元寇』で有名ですね。
【四男トゥルイの子】フラグ
西アジアに侵攻。アッバース朝を滅ぼし『イル=ハン国』を建国。
まるで巨大企業ですね。
死への恐怖で宗教に没頭
そんな栄華を誇った無敵のモンゴル帝国が滅びる要因になったのは、なんと宗教への狂信です。
チベット仏教にのめり込んでしまい、装飾的な寺院の多い当宗教において、お金をつぎ込みまくって、豪華絢爛な寺院を立てては儀式にのめり込むという事を繰り返しました。
何もかも手に入れた無敵の支配者ですが、最終的には『死』が怖くなり、宗教へお金を注ぎ込み、財政崩壊→弱体化→混乱という形ですね。
この混乱の中で朱元璋(しゅげんしょう)という人物が北京を占領して漢民族による『明王朝』が建国されます。
【明】漢民族国家の再建
明を建国した朱元璋は極貧農家の出身でした。
なので、農民に対する統治が抜群にうまかったんですね。
全国の農民を「土地台帳」にまとめて把握します。
コンプレックス・人間不信・恐怖政権
皇帝としての才能は非常に秀でていましたが、「農民出身」というコンプレックスから何かと疑り深く、極端な独裁体制を構築します。
側近が自分の地位を脅かすのではないかと考えてしまい、スパイや秘密警察を使って家臣を常に監視し、たびたび死刑に処していました。
そんな事で、明はしばらくは暗い時代を送る事になります。
暗黒時代の基盤の上で迎える黄金期
そして3代目『永楽帝』の時代に黄金期を迎えます。
ただし『洪武帝』(朱元璋のこと)が築いた盤石な基盤があっての黄金期です。
その意味では「秦のあとの漢」や「隋のあとの唐」みたいに
「強力な改革をした統治者の後に長期安定政権がもたらされる」という中国史上のあるある構図ができます。
今日の日本の「内閣」のルーツになる秘書官(内閣大学士)が設置されたのもこの頃です。
その上で、相変わらず北方民族の襲来が絶えないので、「万里の長城」を大々的に改修しました。
現在の立派な姿は実はこの頃できたものですね。
引きこもり皇帝、そして反乱
14代目皇帝の『万暦(ばんれき)帝』は47年という長い君臨期間であるものの、そのうち30年間は「引きこもり」でした。
このサボり期間に複数の戦乱が勃発します。
豊臣秀吉が朝鮮出兵を行ったのはこの頃で、朝鮮からの救援要請があるなど、戦火が多く軍事費で財政が圧迫され、徐々に衰退していきます。
各地で反乱も起きます。
その最大の反乱によって『李自成(りじせい)』が明の皇帝たちを自害に追い込み明を滅亡させます。
しかし、この頃から女真族が『清』を建国して北方から襲来されます。
李自成は追い込まれ清王朝の時代がやってきます。
【清】名君続きの異民族国家
そして名君が6代続いた『清王朝』の時代がきます。
特に中国史は皇帝の優劣が国の盛衰を左右してきた歴史がありましたので、名君が続いた清は正に名国家と言えるでしょう。
溶け込みながら支配する
何より融和が上手でした。
元々『金』という国号だったわけですが、金は漢民族にとっては、南宋時代に中国北部を奪われた時の名前なので、漢民族にとって受け入れられやすさを考えて『清』に変えた経緯があります。
その他、女真族の「女真」も「満洲」に変えました。現在の満洲になります。
こうしてうまい具合に融和しながら支配していったわけですが、支配しつつも「アメとムチ」をうまく使い分けます。
明時代の役人も分け隔てなく同じ地位に就かせたり、明末期の重税を緩和させたり、その一方で『辮髪』を漢民族男子にも強制したりします。
スーパー名君登場
この清の名君揃いの中でも4代目『康熙帝(こうきてい)』が名君中の名君と言われています。
勉強好きで、忙しい中でも読書を欠かさなかったこの皇帝は諸外国の皇帝からも尊敬されていました。
ロシアのピョートル1世から尊敬され、フランスの太陽王ルイ14世からも手紙をもらっていたそうです。
民衆に対しても何度も減税を行い、その上でうまく統治していた最優秀皇帝です。
海を超えて不穏な影が近く・・・
優秀な皇帝揃いの清の6代目『乾隆帝(けんりゅうてい)』の頃には最大領域に至りますが、無理な遠征がたたり次第に財政が圧迫されていきます。
ちょうどこの頃は、イギリスがインド産のアヘンを中国国内持ち込み始める頃です。
そして、この乾隆帝が死んでから45年後に『アヘン戦争』が起こり、海外諸外国によって半植民地化が進んでいわけです。
そして世界はヨーロッパを中心に激動の時代へと突入していくわけですね。
それではまた。