2030年に運用資産額5億円到達を目標にしている”あきひろ”です。
経済ニュースを深く理解するために現代史を並行して勉強していますが、歴史との繋がりに行き着きました。
という事で、広く浅く時に深く、歴史についても記事にしていきたいと思います。
本記事はヨーロッパの古代から中世までの歴史をざっと説明していきたいと思います。
Contents
マケドニア王国
ヨーロッパの古代といえば、まずは『ギリシャ』からいくと良いです。
この時代は『ポリス』という都市国家の時代です。
大小様々なポリスが存在する中、とりわけ存在感が大きかった広域ポリスに『アテネ』や『スパルタ」という2強があり、この2つのポリスがよく揉めてました。
アレクサンドロス大王
そうやって揉めているところで世界中に領土を広げたのが『マケドニア』ですね。
マケドニアといえば有名なアレクサンドロス大王。
あのナポレオンが選ぶ七人の英雄のうちの一人です。
アレクサンドロスが統率するこの頃マケドニアは世界中に領土を広げて、今のインドくらいまでその勢力を広げます。
しかもそこまでやった時の年齢が20代後半という事で、戦術の天才と言われました。
ギリシャのあたりから、インドのあたりまで。広いですね。
この若いアレクサンドロス大王、イノベーションも色々やりながら成り上がっていきました。
イノベーションの数々
この時代は戦争に行く時なんかは、戦闘員だけで行くわけではないんですね。みんな家族連れで行きます。
女・子供連れで行くんですね。
怖いですし、死ぬかもしれませんからね。中には愛人連れていく人もいたみたいです。
って感じですね。
それを戦争の初期段階で禁じました。
大したことじゃないですけど、この当時にとってはイノベーションだったらしいです。
戦闘の最高司令官以下、将軍、様々なランクの兵士、従者、戦闘用動物、運搬用動物、商人、占い師、役者、学者、記録係、医者、技術者、詩人、哲学者、道案内、退役した老兵、要人の護衛官、捕虜、奴隷、外国人などなど、ホントにたくさんの人たちで構成されていましたが、アレクサンドロスは行軍をできるだけコンパクトにすることに最大限注力しました。
圧倒的な海軍力に「陸戦」で勝利!
他にも、敵国の海軍がものすごく強い時代だったんですね。
ペルシャの海軍力は200隻以上の大艦隊です。これを打ち破るには当然それ以上の兵力が必要に思います。
とかって言ってた人たちがいる中で
ってこう言う事も言ったんですね。
そのような感じで、得意の「陸戦」を駆使して敵軍を潰しました。
沿岸にある敵の艦隊給水地をことごとく制圧していき、こうなってしまえば如何に強靭な艦隊といえども、兵士や船乗りたちに真水が供給できなくなると、どうにもなりません。
そうやって自軍の強みを生かして、敵の強みを無力化し、ボコボコにしてバンバン勝って行ったのもこのアレクサンドロス大王なんですね。
強靭なカリスマ性
アレクサンドロス大王は部下たちからも非常に人気がありました。
なんでかって言うと、部下たちに凄い装備を持たせて戦わせている間に、自分を先頭に迂回して敵国のボスを叩いてくるみたいなやり方をしていました。
後ろでふんぞり帰って
みたいなタイプじゃなかったんです。
みたいなそう言うスーパーヒーロー的なカリスマ戦術師だから相当人気あったわけです。
最強の大王は一匹の蚊に殺される?
もはや神がかっているとしか言えない強さでした。
ただ、めちゃくちゃく強かったんですけど、インドくらいまで行った時に、兵士たちもみんな相当疲弊してたんですね。
インドの方まで行ったもんだから、流石にみんな疲れてヘトヘトになっています。
そんな中ある夜の祝宴の最中でアレクサンドロス大王はいきなり倒れます。
その後10日間ほど高熱に苦しんだのち、ポックリ病死してしまうんですね。
32歳だったらしいです。
死因はマラリアという説がありますが、はっきりした事はわかっていません。
そこがまたかっこいいんですけどね。若くして死んだ天才みたいな感じです。それだから余計に伝説になるんですね。絶頂期でしたから。
【マケドニア王国】後継者選びで滅びる
ただその死ぬ時、遺言を残すんですけど、それによってマケドニアが荒れちゃうんですね。
どんな遺言かと言うと
ってみんな言ってる時に
これが揉める元になるんです。
『最強のやつが俺を継げ』
めっちゃかっこいいんですけど、それによって部下たちが「よっしゃー」ってなって
めちゃくちゃ争ってマケドニア滅びるって言う
カッコ良すぎて滅びてしまいます。
共和政ローマ
マケドニア王国というのは現在の東ヨーロッパのギリシャ寄りなんですけど、その頃に西ヨーロッパのイタリア寄りの方で栄え出してたのが『ローマ』です。
このローマを中心にヨーロッパはどんどん勢力を拡大して文化を築いていくんですね。
マケドニアが滅びてしまったが故に注目されていきます。
ハンニバルの宿敵『共和政ローマ』
そしてこのローマ中心にヨーロッパが展開していくという事が決定的となったのが、『共和政ローマ』の始まりの頃ですけど、そのころに出てくるのがハンニバルというやつです。
ここも面白いです。
このハンニバルというのはローマの人ではないんですけど、アレクサンドロス大王と同じく、この人もナポレオンが選んだ英雄七人のうちの一人です。
この時代、共和政ローマは最強でした。
文字通り共和政なので独裁者的なトップがいるわけではなくて、基本は「みんな平等」って感じでだったんですけど、そうなったらそうなったで結構揉めます。
『平等』ってなると
ってなるんで中は揉めるんですけど、それでも外に対しては最強国でした。
ハンニバルの生い立ち
ハンニバルは、ブーツ型のイタリア半島の爪先の部分、地中海を挟んで向かい側のアフリカ大陸の今のチュニジアのあたり、その当時『カルタゴ』って国でしたが、そこの出身です。
『復讐の天才ハンニバル』と言われました。
ちなみに父親はローマにやられています。
父親は幼少のハンニバルに言いました。
そうやって誓う父親を見て
って感じで育ったのがハンニバルです。
だから幼少の頃から最強のローマに対して「絶対一矢を報いるんだー」って言って育てられた天才です。
まさかのブーツの上から奇襲
この天才ハンニバルが最強のローマに対してとった作戦というのが後世にまで語り継がれる面白い作戦です。
普通はこのブーツの爪先を狙います。
海路が近いので、そこから上陸して狙っていくものなんですよね。
ところが真逆の作戦を取りました。
なんとアフリカ大陸をそのまま西に横断してポルトガル・スペインのある半島の方から上陸し
そのままブーツの上から攻め込んで行きました。
しかも像に乗って。
そんな旅する?って話です。
そんな攻め込み方でローマをボコボコにします。
人望もあるハンニバル
まさか像に乗ってあっち側からくるなんて誰も想像していません。
しかも何がすごいって、そういうルートで攻め込もうとしても、普通は途中で裏切られます。
ところがこのハンニバルは非常に人気があったので、そのルートでも「行きますよ!」ってなるんですね。
普通は「このルート考えたの誰?」ってなるんですけど、そうはならないのがこのハンニバルなんですね。
こんな天才ハンニバルですが、向こうにも同じように天才が現れます。
スキピオっていう天才が現れて、ハンニバルをめちゃくちゃ研究します。
そしてそのスキピオにやられてしまうんですね。
ただ、後にお互い認め合ったようですけど。
結局のところ、このハンニバルでも倒せなかったこの共和制ローマが絶頂を迎えます。
ユリウス・カエサル
ただ先ほども出たように内輪揉めが多かったんです。そんな内輪揉めが多い中で現れたのが、ユリウス・カエサルです。別名シーザーですね。
ラテン語読みだと“ユリウス・カエサル”
英語読みだと“ジュリアス・シーザー”
皇帝といえばシーザー。シーザーといえば皇帝。という男です。
どんな人かっていうと、イケメンで天才のアレクサンドロスとは全然違います。
ハゲてて女遊び酷くて、やたら借金があったそうです。面白いですね。
応援され上手なカエサル
だけど頭はすごく良かったみたいです。
借金をうまく使ってました。
ちょっと借りてるというレベルではなくて、むちゃくちゃ借りてました。
そうなると、もしカエサルが死んだら貸してる側は返してもらえなくなるので、だからむちゃくちゃ借りる事でむちゃくちゃ応援してもらうっていう形になってました。
そうやって応援してもらう事で、どんどんのし上がっていきます。
あのクレオパトラとも関係を持ってしまうほどになりました。当然そのクレオパトラもすごいわけですけど。
有名な「ブルータスお前もか」で終了
そのカエサル、『共和制ローマ』から『帝政ローマ』に変わる「ワントップで行こうぜ!」っていう時に
って言ってる時に
ってバーンて刺されて
ってなるんですね。
帝政ローマ
初代皇帝アウグストゥス
そして、このカエサルの部下にクレオパトラがもう一回付いたんですけど、それは結局カエサルの養子にやられちゃいます。
その養子が養父カエサルの後を継いで初代皇帝になって帝政ローマが始まります。
その養子とはアウグストゥスですね。
五賢帝時代
そこからめちゃくちゃ頭の良い『五賢帝』っていう五人の皇帝の時代にローマが凄く大きくなって繁栄します。
これまでの歴史上稀に見るローマの平和時代という事で有名です。
共和制時代から続いてきた領土拡大が一種の集大成となります。
東西分裂
それでもやっぱり最盛期を迎えて以降はだんだんと衰えていきましたので、ある時西と東に分けて、東の方が『ビザンツ帝国』になって、西の方はすぐに滅びてしまいます。
ゲルマン民族大移動
この西のローマ帝国が滅びる要因になったのが「ゲルマン民族大移動」ですね。
名前だけは覚えてる人も多いと思いますが、このゲルマン民族がどこから来たのかと言うと東の方から来ています。
この当時、東のユーラシア大陸のアジアの方から『フン族』というのが来て、押し出されるようにヨーロッパに入ってきたゲルマン民族が入ってきたのが西ローマ帝国の跡地です。
フランク王国
そこで建国したのが『フランク王国』です。
ゲルマン民族の中のフランク族と呼ばれる人たちが現在のフランスのあたりに作ったのがフランク王国ですが、これが大きくなります。
これが当時、教会でカトリックが
って言ってるところにフランク王国できたから“Win-Win”になりました。
そういう風にカトリックといい感じに手を結んでフランク王国はでかくなりました。
その時のトップがカール大帝です。
このカール大帝は『シャルルマーニュ』という呼び方もあります。
このフランク王国は後に分裂して、今のフランスとドイツとイタリアの元になっていますので、ドイツ的な呼び方をするとカール大帝ですし、フランス的な呼び方をするとシャルルマーニュ、そう言う二つの名前を持つ人です。
そしてこのフランク王国こそが今のヨーロッパを作った王国になっていくわけですね。
ローマ帝国の名残はむしろ『ビザンツ帝国』です。
【東西分裂】争いのヨーロッパ
このフランク王国も大きくなりすぎて、ここも東と西に別れます。
大体大きくなりすぎると東と西に分かれますね。
西フランク王国が『フランス』。
東フランク王国が『神聖ローマ帝国(後のドイツ)』
そしてもう一つが『イタリア』
になっていくわけです。
そして帝政ローマの東側のビザンツ帝国。これが長いです。
フランク王国が分裂したのに比べてビザンツっていうのは1000年近く続きます。1000年王国です、すごいですね。
なんせヨーロッパの東の端の方、ギリシャの近くですから、むしろこのビザンツのライバルというのはイスラム勢力なんですね。
イスラムの方とは頻繁にバトルがありますけど、ヨーロッパの方は西の諸国同士でバトルしてましたので、あまりビザンツには火の粉は飛んでこなかったんですね。
【ローマ争い】神聖ローマ帝国VSイタリア
ところで、このフランク王国が分裂した後の各国の争いも面白くて、フランク王国が西のフランスと東の神聖ローマ帝国とさらにイタリアに分かれたあとは、『神聖ローマ帝国』対『イタリア』っていう対決がずっと行われます。
なんでかっていうと、かつてのローマ帝国への憧れがみんな凄くて、「神聖ローマ帝国」って名付けるんですけど、
て言われるんですね。
て言っているイタリアと揉めるんです。
ローマ争いです。
っていう争いです。
【宿命の対決】フランスVSイギリス
さらに、フランスとイギリスの争いです。
イギリスというと島国ですけど、フランスの本土のところまで来てたんです。序盤はイギリスが押してたんで、今のフランスの領土まで結構イギリスのものになってしまってました。
英雄ジャンヌ・ダルク
そんなフランスのピンチな時に出てきたのがジャンヌダルクです。
フランス軍を率いてイギリス軍を追い返しフランスを勝利に導きました。
フランスという国が今の状態のようにイギリスのものになっていないのはジャンヌダルクの功績ですから、英雄としてフランスで物凄い人気なんですね。
まとめ
ヨーロッパの古代から中世までを見てきました。
このローマ時代からの流れで今のヨーロッパの礎、国々の元になるものができたわけで、さらにはローマがラテン語を公用語とした事でアルファベットを中心とした世界になっていったわけです。
さらに、このローマ帝国がほぼ終わりかけの頃に、キリスト教を国の宗教、国教だって認めた事で、ヨーロッパはキリスト教中心の社会になりました。
アルファベットとキリスト教がヨーロッパの基本的なベースになったというのは、この帝政ローマのあたりからこの流れがあるからという事です。
帝政ローマまでが『古代』
それ以降が『中世』
という事です。
かなりざっくりとした内容でしたがヨーロッパの古代から中世までの流れを掴めればと思います。
それではまた。